トリュフの歴史

ピエモンテ統一前 の18世紀、ピエモンテとサボイア公国は白トリュフを有名にするための重要な役割を担っていました。
白トリュフは、よくパーティーで供されていました。18世紀の食の論文や料理本でトリュフが登場するようになりましたが、その正確な種名は当時ほとんど知られていませんでした。
「いったいトリュフというものはどの植物分類に入るのだろう、どうやって増えるのだろう」、という科学的な好奇心がトリュフの研究を進めてきました。
またトリュフを犬で探すというアイデアは当時の宮廷の外国人大使たちを惹きつけました。そして人々は、白トリュフはよその国でも育つのだろうかと思い始めました。

トリュフに対する関心を知るために、次のような記録があります。
・1723年フランスの王ルイ15世がは、父であるサボイア公国王ビットリオ・アメデオに熟練のトリュフハンターとトリュフ犬を送ってくれるよう頼みました。

・1751年、イギリスのカンバーランドの公爵でジョージ2世の息子であるウィリアム王子も同様のお願いをしたことがありました。 当時はその依頼にこたえ、カルロ・エマニュエレ3世はバンキーナ兄弟が訓練した7匹のトリュフ犬を彼に贈りました。

・トリュフは郵送もされていました。ヴィットリオ・アルフィエーリというアスティ出身の作家であり貴族でもある男性の手紙を読むとそれが分かります。ローマから妹のジウリアにしたためた手紙の中で、彼は「ちゃんと梱包されていないから、半分割れて、だめになっていたよ」とこぼしていました。そして続けて「梱包の際は、わらで動かないようしっかり包むこと。」「これまではすばらしい状態で届いていたのに・・・」と書きました。

・1814年、ルイ18世は「フランス革命以前のようにピエモンテからトリュフがまた来るだろうかね」と尋ねています。

・ジョバンニ・ベルナルド・ヴィーゴによる書籍
カナヴェーゼ(地名)の修道院長 ジョバンニ・ベルナルド・ヴィーゴはトリノ大学の教授でした。彼は1776年「Tubera terrae」というラテン語とイタリア語で書かれた短い教訓的書籍を出版しました。その中で、いつどこでトリュフが見つかるか、土地による違い、トリュフの種類、トリュフ犬の使い方、トリュフの再生についての理論、調理法、保存方法などを詳細に書いています。
ここに書かれている「トリュフの土地」は紛れもなくランゲやモンフェッラートのことでしょう。ランゲとははっきりと書かれていませんが、次のように表現されています。「ぶどうや木々に覆われているリグリアの山々の斜面、そして急流によって削られた谷のあるタナロやボルミダ。アスティのあたりから高くなっていくバッカスやケレスに愛された美しい丘。そこはたくさんの著名人を生み出した地。そして素晴らしいモンフェッラート。」同様に興味深いのはこのトリュフがもつ食の価値に対する彼の考え方です。
「トリュフを使用したすばらしい香りのたくさんの料理。トリュフなしでパーティーはこれほどにも華やかになることはなく、どんなぜいたく品もこれほどの満足感を与えないでしょう。」
ヴィーゴはトリュフを掃除するコツも教えています。「まず、泥を落とし、温水をふりかけ、小さなブラシで掃除します」
トリュフを切るために、ラズイエラという、今で言うトリュフスライサーによく似たものを使用します。刃は薄いくるみの木で挟まれています。トリュフを薄くスライスできるように作られています。一般的にはあまり知られていません。

・美食家ミシェル・ジーン伯爵による出版書
1780年、世界を駆け回る博識な美食家であるポーランドの伯爵ミシェル・ジーンは自分がピエモンテの貴族に送った、ピエモンテのトリュフ(白トリュフ、ビアンケットトリュフ、黒トリュフ)について手紙のコレクションを出版しました。
彼はそれぞれのトリュフの特徴や顕微鏡で見た様子、栽培の実験の様子を述べ、何とか白トリュフの栽培に成功したと書いています。
彼は次のようにピエモンテのトリュフを称えています。「ロンドンのリッチモンド公園で見つけたトリュフが、ピエモンテのトリュフと同じ香りだなんていう人はいるでしょうか?そんな意見ははなはだ疑問です。なぜなら私たちはヨーロッパのどこにもピエモンテ地方のトリュフと同じものにお目にかかったことはないからです。」

・トリノのヴィットリオ・ピコによる論文
1788年、トリノのヴィットリオ・ピコは街の医学大学に採用されるため、ラテン語で長い論文を書きました。その中で彼はトリュフの性質について記述し、そして分類し、それが人体に与える影響について論じています。彼はトリュフを4つに分類しました。その中にはアルバの白トリュフとして有名なTuber Magnatum もあります。(Magnatiumの語源は豊かさ、君臨すること、力強さ、です。) ピコは彼の同胞であるカルロ・ルドヴィコ・アリオーニ(ヴィットリオ・アメデオ3世の主治医)の植物学を参照して、トリュフの王様である白トリュフ(Tuber Magnatum)をこのように表現しています。「不規則な形、外側は黄色がかった灰色、デリケートな手触り、薄い白灰色の肉質、優雅な蛇色の霜降り。ところどころに赤っぽい斑点がある。秋に収穫され、かぐわしい香りと魅惑的な味。モンフェッラート、アスティ、リグリアの丘(当時のランゲの別名)で育つ。この種類のトリュフの属名を方言ではトリフォレとされ、たまにグリーズ(グレイ)と呼ばれることもある」その素晴らしい論文のおかげでピコ博士の名は彼が分類したTuber MagnatumとTuber Albidumのトリュフの学名とともに永遠のものとなりました。つまり、それぞれTuber Magnarum Pico, Tuber Albidum Picoというように、ピコ博士の名前が加えられたのです。

・菌類学者カルロ・ヴィッタディーニの研究成果
カルロ・ヴィッタディーニはロンバルディア出身の博士でキノコに関する学者でした。彼は解説書を記しています。その解説書には彼の手で描かれた65のトリュフの生態系の図が解説文付きで載っていました。65のうちの50は新種でした。彼は沢山のトリュフの種に名前をつけました。その9つのうち6つはイタリアで収穫され売られることが許可されています。Tuber Borchii(Tuber Albidum Picoの別名)のほかには、Tuber Melanosporum、Aestivum Vitt. 、 Tuber Brumale Vitt. 、 Tuber Macrosporum Vitt. 、Tuber Mesentericum Vitt. の5種類です。1890年代にはフランス人のガスパール・アドルフ(1813-1901)とルネ・ジョセフ、 Jジャスティン・フェリー(1845-1924)によってTuber Unicatum ChatinとTuber Brumale var. Moscatum Ferryも加えられました。

・書籍「味覚の生理学」での記述
1825年パリで出版された「味覚の生理学」の中で美食家の行政官、ジーン・アンテルメ・ブリア・サバランは一章を丸ごとトリュフに使いました。トリュフの消費量は18世紀に比べ大きなブームになっていました。「トリュフの出てこない食事なんて見たことが無い」と彼は書きました。消化性と色々な説のある催淫効果について長々論じた後、彼はこう締めくくります。「トリュフは催淫効果が実証されていませんが、時に女性を優しい気持ちにさせ、また男性を恋に落とします。」続けて「白トリュフはピエモンテで見つけることが出来ます。そのトリュフはすばらしいものです。かすかなニンニク味、それはその価値をまったく損なうことなく、むしろ後味の悪さを消すのです」。

・シェフによる料理専門書に記されたトリュフ
19世紀もっとも有名なピエモンテのシェフはビエッラ出身のジョバンニ・ヴィアラルディ(1804-1872)でした。カルロ・アルベルトとヴィットリオ・エマヌエール2世のサボイア公国で、はじめはアシスタントシェフ、その後ヘッドシェフになった人物です。料理の専門書を出した後、1863年、「中産階級の人のための簡単で安く出来る料理」を書き、一躍有名人となりました。その中に相当数のトリュフの料理を紹介しています。白トリュフも黒トリュフも良く使われていて、当時トリュフが一般的によく使われていたことを物語っています。
白トリュフは卵料理、リゾット、ポレンタ、鶏肉、ギニー鳥、きじなどに大量に使われていました。ソースの中に使用したりパイのフィリングに使ったり、薄くスライスしたり、時に焼いたりと、今日の利用法とは相容れないものです。明らかにその香りと味を台無しにしているように思えます。

トリュフの外交利用

最近になり、トリュフの「外交の武器」としての使い方の新情報がジョルダーノ・ベルティ によって発見されました。トリュフの公文書の管理人です。サボイアの伝記作家によると、1822年のベローナの議会でのオフィシャルランチの際、サルデニアの王、サボイア家のカルロ・フェリーチェ(1765-1831)は ロシア皇帝アレクサンドルの前に座るという光栄な機会を得ました。この特権を得ることができたのは、彼がプレゼントしたピエモンテのトリュフが、アレクサンドルに”大いなる喜びと、忘れかけていた渇望を呼び起こしたから”だと作家は書いています。

ランチの間、皇帝はサボイアの君主に向かい、彼への感謝を述べ、「ジェノバはあなた方の固有の地として編入されるべきと自分は本当に願っている」と伝えました。
これは1815年のウィーンの議会での決定事項でした。

トリュフについて言えば、ロシア皇帝はこのカルロ・フェリーチェに次のように言いました。「これを食したとき、これまで経験したことのないほど退屈というものから解放される。鳥のように陽気になり、機敏になる」 。

トリュフフェアを牽引するイタリア

アルバへ
アルバへ

”Fiera”という言葉の元々の意味は聖なる日に開催される定期的なマーケットのことでした。ラテン語ではFeriaeといいます。その言葉の意味は時代とともに変わり、現在では特定の場所で開催される大きな展示会や、分野に特化した展示会をさすことが多いのですが、地元のお祭り”sagra”のようなものにも使うこともあります。

 

トリュフフェア入口
国際トリュフフェア会場入口

これらのフェアの中でもトリュフのフェアはとりわけ重要なものです。
イタリアではトリュフフェアが60もあります。そのうちもっとも盛大なものがアルバで開催される白トリュフフェア、インターナショナルのトリュフフェアです。
これはアルバで開催される白トリュフフェアです。

著名人とトリュフのポスター
著名人とトリュフのポスター

ピエモンテのクネオ県で10月の中ごろから11月中ごろの週末に開催されます。他のフェアに関して言えば、20は国のフェア。残りは地域のフェアです。

アルバ国際トリュフフェア会場の外
アルバ国際トリュフフェア会場の外

ピエモンテではクネオ県のコルテミーラ(クネオ県)、モンテキアーロ・ダスティとモンカルヴォ(アスティ県)、アレッサンドラ県 ムリセンゴやサン・セバスティアーノ・クローネ県(アレッサンドラ県)、白トリュフフェアの開かれるトリノの丘で知られるリヴァルバ(トリノ県)でフェアが開催されます。リグリア州ではミッレージモで1つ、パルマ県のエミリア・ロマーニャではカレスターノでフラーニャ黒トリュフフェアが、リミニのサンターガタ・フェルトリアで白トリュフフェアがあります。トスカーナではピサ県サン・ミニアートで白トリュフフェアがあります。

 

アルバ国際トリュフフェア会場の内部
アルバ国際トリュフフェア会場の内部

ペルージャ県ではノルチャの黒トリュフフェアが2月から3月に行われ、50年も続いています。これは、ウンブリアで、もっとも重要なフェアとなっています。
他には、お城で有名なグッビオ、ヴァルトピーナ、テルニではファブロでもトリュフフェアが行われています。

大きな白トリュフ
美しい白トリュフ

ナショナルフェアは3つあり、すべて白トリュフの祭典です。マルケ州ペーサロ・ウルビーノ県で開催されていて、最近ではペルゴラでも開催されるようになりました。アクアラーニャとサンタンジェロ・イン・ヴァードでも長い歴史のフェアがあり、どちらももう50年も続いています。ラツィオ州ではチョチャリアで白トリュフ祭りが始まり、黒やスコルツォーネトリュフ祭りがフロジノーネ州のカンポリ・アッペンニーノで開かれるようになりました。

イナウディ社アルバショップ
イナウディ社アルバショップ

モリーゼ州ではイゼルニアのサン・ピエトロ・アヴェッラーナで企画されたフェアにモリーゼのナショナル白トリュフフェアがジョイントし12月にイゼルニアの州都フェアが開かれています。イタリアのナショナルフェアはコッリアーノのトリュフとカンパニア地方のサレルノ県の地元のフードフェアで締めくくられます。

アクアラーニャのトリュフフェア

マルケ州にある人口4,500人の小さな町ペーサロ・ウルビーノ県にあるアクアラーニャはリミニからローマへつながるローマ執政官の道、フラミニア街道の、ファーノからフルロに続く古の道沿いの街です。その地はアルバと並んで白トリュフの中心地のひとつです。歴史的にも「アルバの白トリュフ」「アクアラーニャの白トリュフ」と呼ばれてきました。トリュフは何世紀もこの地に集まり売られてきました。そして次第にこの場所は、貴重な白トリュフや地元で採集されたり栽培されたりする黒トリュフの販促のための特別な場所になっていきました。年間に扱う量は約60,000キロです。

シーズンになると、アクアラーニャの地元のお祭りではTuber MelanosporumやTuber Aestivum Vitt. 、つまり夏トリュフとかスコルツォーネといわれる種類のトリュフの収穫を祝ったりするのですが、なんと言っても大事なイベントは10月から11月のナショナル白トリュフ祭りです。近年では、平均20万人の観光客が毎回お祭りに集います。

お祭りの中心は「パラタルトゥーフォ(トリュフの場所という意味)」。4,000平米の大きさで、たくさんの種類のTuber Magnatum製品を買ったり試食したりできます。そこでは他の特産物も扱っていて、ほとんどが地元のものですが、地元以外のイタリア各地からもやってきます。
テイスティングサロンでは、有名シェフによるセミナーや有名人のクッキングチャレンジ、本の紹介なども行います。

アルバの国際トリュフフェア

アルバ町の賑わい
賑わうアルバの街

アルバは人口31,000人。ピエモンテ州クネオ県の北東の角に位置しランゲやロエロの丘陵地区を管理する街です。
1928年以来トリュフフェアを開催し、2007年からは公式にインターナショナルフェアもスタートしました。イタリアで最も古いイベントのひとつです。


トリュフの店頭販売
トリュフの店頭販売

CRC財団(2013年設立 、クネオ県発展のための展示会)が推進しています。来場者の4人に1人はイタリア以外からの参加で、イタリアからの3人の内2人はピエモンテ以外からの参加ということです。フェアは現在では10月第2週から11月の第3週まで6週間にわたって開かれます。


ALBA町内での露店
アルバの街、露天にもショップ

食とワイン、文化とスポーツの融合の祭典。このフェアの中心は巨大なトリュフマーケットです。ここにはたくさんの最高級のトリュフや様々な種類のトリュフがあります。そしてピエモンテの特産物のブースがその周囲を取り囲みます。何年もの間、色々な試みがなされてきました。


グリンザーネカブール城でのオークション
グリンザーネカブール城でのオークション

官能分析、トリュフハントのモックアップ展示、ランゲやロエロの素晴らしいワインを楽しんだりワイナリーを訪れたり、テイスティングセミナーやピエモンテのIGPヘーゼルナッツのセミナー、クネオの職人技で作るチョコレート、この地方のDOPチーズのセミナーなども行われてきました。
地元の有名シェフの料理デモンストレーションやスローフード協会とColdirettis Campagna Amicaのコラボで運営されるローカルフードマーケットも行われます。
文化的なイベント(展示、コンサート、リーディング)は秋を通してのフェア中に集中して行われ、スポーツ競技としてはバルバレスコとトリュフマラソンからゴルフトーナメントまであります。

フェアの知名度は国内外の有名人に送られる「トリュフ・オブ・ザ・イヤー」によってより高まっています。
これまでにこの賞を受けたのは、ジェラール・ドパルデュー、ソフィア・ローレン、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、ルチアーノ・パバロッティ、マルチェッロ・リッピ、スティング、モナコ大公アルベール、フランシス・フォード・コッポラ、ペネロペ・クルズなど錚々たるメンバーです。

11月には「国際トリュフオークションで」が、近隣のグリンザーネカブール城で開催されます。
過去には、パリのビッダーズ、モスクワ、ラスベガス、ロンドン、ミュンヘン、東京、ニューヨーク、ロス アンゼルス、ハリウッドや香港でオークション中継がライブで行われたこともありました。

1928年から現在まで

もともとトリュフフェアは、1928年、当時すでに有名だったジャコモ・モッラのホテル&レストラン「サボナ」の前でぶどうの収穫後のお祝いとして行った華やかな展示マーケットが始まりでした。
翌年、そのマーケットは市とのコラボにより、ぶどう収穫祭りとは分けられ、名前も「有名なランゲのトリュフの賞つきトレードフェア」に変わりました。1930年、トリノからの列車は人であふれかえり、この催しは素晴らしい成功を収めました。そこで、これから運営委員会を立ち上げようということになりました。

最高責任者は議員のガストーネ・グエリエリ、ミラフィオリとフォンタナフレッダの伯爵、ビットリオ・エマヌエレ2世とローザ・ヴェルチェッラーナの甥、ゆえにビットリオ・エマヌエレ3世のいとこになる人物です。彼は、地元でもっとも力を持つ人間でした。そして彼のトリュフフェアのスタートでの役割は当時サボナの若い常連客であり、モッラのゴーストライターでもあったラオウル・モリナーリの60年前の記録から直接知ることが出来ます。彼の友人、ジョルダーノ・ベルティが「トリュフの王様」(alba fenice Boves 2011)という本の中に記事を載せました。インタビューに参加したモリナーリによると、1952年11月、レストラン経営者モッラが、フェアの創設にかかわる状況の詳細をアメリカ人ジャーナリスト ロバート・リテリに語りました。

1928年8月15日、3人の人間がサボナのテーブルについていました。ジョバンニ・ピコ博士、前アルバ市長、法律家でアルバの現職議員ジウリオ・チェーザレ・モレーノ、そしてガストーネ・ディ・ミラフィオーリ。夏の大雨のおかげでその年はトリュフがたくさん収穫されることが予想されました。そこでモッラはその年の秋にトリュフマーケットを開催することを思いつき、その事についてデザートを食べながら彼の著名な友人たちに語っていました。伯爵はすぐさま同意し全面協力を約束しました。

ガストーネ・ディ・ミラフィオーリは、大地主でワイン畑の所有者、1913年から議員、1934年から王国の上院議員であった人物で、県の経済局の議長でサボイ家の親族であり、当初からトリュフフェアの主要スポンサーでした。それは起業家としての第6感であったのでしょうか。トリュフフェアは彼の名前のおかげで輝きを増し、有名になったのは疑うべくもありません。これはフェアのセレモニーパーティーに参加した有名人の記録を見てもわかります。例えば、王位継承者ウンベルトが1936年に参加しています。王国の崩壊の後、「23日間」や戦争が終わった後でさえ、民主主義のアルバがフェアの習慣を取り戻すと、時の大物たちの招待状の返事はいつもいい返事でした。

はじめの何年かはサボイ家の存在や政府の存在はもてはやされていました。次官や大臣を招待する習慣は戦後すぐ再開されました。たいていは快い返事でした。ジョバンニ・ゴリアやジウリオ・アンドレオッティのような首相も参加してくれました。

楽しいサプライズや重要な就任なども時にありました。1992年テープカットとパビリオンの見学の後、アメリカ大使、ピーター・セッキアが楽しいお祭りに行きたいと言い出し、みんなでジェットコースターに乗ったことがあります。1993年、姉妹都市を締結したり、たくさんのドイツ人ツーリストが訪れたりする状況に感謝を表し、ベーブリンゲンの市長アレキサンダー・フォーゲルザング氏とイスラエルの代表アラファト率いるPLOの代表が同時に開催の宣言をしました。その頃、和平協定がなされていましたが、アルバの白トリュフのおかげでそれがアピールされました。
その当時を振り返っても、地方都市アルバのお祭りは明らかに既に国際的であったといえるでしょう。

アルバのトリュフの父

トリュフフェア発祥、ホテルサボナの「ジャコモ・モッラ」の人生に関するたくさんの逸話が彼のキャラクターを物語っています。彼の人生を振り返ると、彼はよくインタビューを受け、たくさんの人の訪問を受け、言葉を引用され、意見を求められたりと、アルバのどんな人間よりも尊敬を集めていました。彼のレストランのテーブルにはショービジネスの世界でのビッグネームのみならず、政治家や作家、ビジネスマン、たくさんの美食家や食通たちが座りました。また世界各地からの観光客、何十万人もの食事客が、ジャコモ・モッラの人間性、トリュフの香り、アルバの素晴らしいワイン、神話的にもなっている彼のサボナ、そして、一度食べたら忘れる事のできないアルバの伝統的な料理を生み出す彼のキッチンに心惹かれ、訪れたのです。

彼は実践的な料理教室を開き、そこで長期間のコースを終えると料理人は卒業証書を得ることができました。その料理教室は50年間の内に地域の有名レストランやトラットリアで働く伝説的なシェフを何人も輩出しました。

彼はよい品質の原材料にこだわり、自分の農場を開きました。そこで野菜を育て、豚や牛を飼育し、ワイナリーを作りました。そしてハンターたちに、野うさぎやキジ、ウズラやヤマウズラを取ってきてくれるよう依頼しました。彼はトリュフに心をわしづかみにされ、トリュフはアルバの街やこのランゲの地区、そして様々な地域の味覚の魅力を大きくし、活性化できると信じていました。

1928年、彼はサボナホテルを手にしました。真っ先に彼は修復に取り掛かりましたが、当時としてはそれは極めて珍しいことでした。バーやビリヤードルーム、ダンスホール、そして宿泊客だけではなく、街の人のためのレストランもつくりました。
そこはすぐにアルバで重要な場所となり、ワイン生産者のミーティングを行ったり、ぶどう農家やブローカー、セールスマンやアルバのコミュニティーのパーティールームになったりしました。
ジャコモ・モッラはたくさんの人たちに対し特別な機会にケータリングサービスも行いました。
またプロモーションのためにトリュフフェアを行おうと考え、そして生涯、財政支援を続けました。

第二次世界大戦後、ジャコモ・モッラは思いつきました。「毎年、国際的な有名人にその年の一番大きなトリュフをプレゼントしてはどうか」。そして当時のアメリカ大統領、ハリー・トゥルーマンに送ったトリュフは、2,520gにもなりました。このニュースは、新聞の一面を飾り、世界中を駆け巡りました。

また観光客のため、ロッディにトリュフ犬養成大学をつくり、また、本物のトリュフハンターのような体験が出来るイベントも行いました。ホテルのオーナーとしては、彼はいつも礼儀正しく、人の役に立とうとしました。そして洞察力のあるレストラン経営者でもあり、たくさんのアンティパストを発明しました。また白トリュフと同様、黒トリュフのディーラーとしてフランスに売ることもしました。

彼はトリュフの保存法も見つけ出し、1948年、アメリカ向けにフレッシュトリュフと、プリザーブドトリュフの販売を始めました。彼はトリュフ王として世に知られ、彼の息子のマリオとジョルジョ、フランチェスコは1990年まで彼の世界を引き継いできました。

レストラン・サボナ その世界

今では伝説的レストランとなったサボナでモッラは洗練された料理を提供していました。それはサボイ王国の料理とランゲの伝統料理のミックスされた料理でした。

基本食材は白トリュフ。労働者や専門家、農家そして政治家、ブルーカラーや国際的有閑上流階級たちが一様にサボナのテーブルに着くことが出来ました。地下にはダンスホールがあり、また小さな食堂もありました。そこではイタリアでもっとも有名なオーケストラが演奏をしていました。トリュフ産業が本格化したのはレストランの厨房でした。そして地域で既に繁栄していた会社、チョコレートのフェレッロやテキスタイルのミロリオと比肩するようになっていきました。

1950年代にはモッラはトリュフ王というタイトルを得て、世界中の有名人にすばらしいトリュフを贈りました。アメリカ大統領、ハリー・トゥルーマン、アイゼンハワー、J.Fケネディー、クレムリンの指導者、ニキータ・フルシチョフ、女優リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー。イギリスの政治家ウィンストン・チャーチル、エチオピア皇帝ハイル・セラッシー。たくさんの人々がこのトリュフ王の”宮殿”にひきつけられました。哲学者、芸術家、音楽家、普通の人々。アルフレッド・ヒッチコックがランゲを訪れた際、スリラー物の構想を練ったのもサボナのレストランです。
シチュエイショニストのピノ・ガッリツィオはアルバの香りを缶詰にして外国に輸出をしようと思いつきました。フェデリコ・ロッサーノはトリュフへの賛美の歌を書きました。エジプト前国王ファールークはたくさんの従者を率い、トリュフ料理の試食に訪れました。

トリュフ地区の形成

1963年、クリスマスの何日か前、ジャコモ・モッラは突然逝ってしまいました。アルバ、ランゲ、そして彼の作り上げてきたトリュフフェアにとって、そして彼がこれほどまで名声を高めた白トリュフにとって大きな喪失でした。幸運なことにジャコモの精神は彼の息子たちに引き継がれ、その後30年にわたりトリュフビジネスは続きました。もっとも熱く活動をしていたのはラオウル・モリナーリでした。彼はモッラのプレス秘書として働いていました。新しい主催者を紹介し、イベントの地元キャラクターにスポットライトをあて、トリュフとランゲやロエロの特産品、すばらしいワインと関連付けながら1970年にトリュフフェアを開催しました。それはその後のDOC階級わけの第一歩でした。再び伝統的な料理を復活させ、一番よく再現できたレストランを応援し、フェアにもうひとつの柱をつくろうとしました。

食とワインに関しては1973年にナショナルフェアの催しの重要な部分にはなったのですが、それは薬屋とワイン製造者を兼ね、美食家としても有名なルチアーノ・デジャコミが統括していたFamija Albesiaとトリュフ騎士団の規定と話し合いによるところが大きいものでした。彼は公的には、1996年から2003年までトリュフフェアを仕切っていたアルバ・ブラ・ランゲ・ロエロ団体連合の議長、またクネオ商工会議所の議長でした。その後彼の仲間のジャコモ・オッデーロが引き継ぎました。

彼は1996年から2000年にかけてトリュフスタディセンターの創設推進に尽力しました。2007年、熱心な研究によってトリュフの官能的検査が可能になり、トリュフの生産地にトリュフの官能判定家が生まれました。オッデーロはトリュフーテイスターの国際組織も立ち上げました。組織のメンバーはトリュフの品質の管理として官能検査を行い、科学的な研究や、教育の機会をサポートしました。また、新しい判断法をトレーニングしたり、リフレッシャーコースの設立にも従事しました。

2003年、市の権力者がアルバの白トリュフ祭り協会を設立しました。その組織は市とアルバの店主協会、そしてGiosta delle cento torriによって構成されていました。アルベルト・チリオが最初の議長で、続いてアントニオ・デジャコミがそれを継ぎ、トリュフフェアや色々な街のお祭りを企画しています。国際的に宣伝することを目的とし、大小さまざまのワイン製造業者の協力の下に活動しています。伝統と進歩を求めるレストラン経営者は増え、その質も上がってきています。名声と魅力を備えたトリュフはいわずもがな、ワイン製造や観光などに魅了され、この地に根を下ろすシェフもいます。トリュフ採集と選別と販売、そして調理、おもてなし、観光サービスの専門スキルが調和して、この自然の贈り物をと結びついて、本当の「トリュフ地区」というものが形成されてきました。

ついに国際的に

2006年からイタリア商工会議所連盟によっておこなわれてきた研究の結果、「イタリアでもっとも有名な食とワインの祭典はアルバのトリュフ祭りである」ということになりました。そしてその翌年、オフィシャルにも「国際的である」という待ちに待った承認がありました。トリュフ祭りというのは文化であり、ショーであり、現実逃避であり、映像なのです。また土地の歴史であって、プロモーションの手段でもあります。壮大で美しいそして豊かな物語。このお祭りの作り手はアルバの街とその住人です。