トリュフ地区の形成

1963年、クリスマスの何日か前、ジャコモ・モッラは突然逝ってしまいました。アルバ、ランゲ、そして彼の作り上げてきたトリュフフェアにとって、そして彼がこれほどまで名声を高めた白トリュフにとって大きな喪失でした。幸運なことにジャコモの精神は彼の息子たちに引き継がれ、その後30年にわたりトリュフビジネスは続きました。もっとも熱く活動をしていたのはラオウル・モリナーリでした。彼はモッラのプレス秘書として働いていました。新しい主催者を紹介し、イベントの地元キャラクターにスポットライトをあて、トリュフとランゲやロエロの特産品、すばらしいワインと関連付けながら1970年にトリュフフェアを開催しました。それはその後のDOC階級わけの第一歩でした。再び伝統的な料理を復活させ、一番よく再現できたレストランを応援し、フェアにもうひとつの柱をつくろうとしました。

食とワインに関しては1973年にナショナルフェアの催しの重要な部分にはなったのですが、それは薬屋とワイン製造者を兼ね、美食家としても有名なルチアーノ・デジャコミが統括していたFamija Albesiaとトリュフ騎士団の規定と話し合いによるところが大きいものでした。彼は公的には、1996年から2003年までトリュフフェアを仕切っていたアルバ・ブラ・ランゲ・ロエロ団体連合の議長、またクネオ商工会議所の議長でした。その後彼の仲間のジャコモ・オッデーロが引き継ぎました。

彼は1996年から2000年にかけてトリュフスタディセンターの創設推進に尽力しました。2007年、熱心な研究によってトリュフの官能的検査が可能になり、トリュフの生産地にトリュフの官能判定家が生まれました。オッデーロはトリュフーテイスターの国際組織も立ち上げました。組織のメンバーはトリュフの品質の管理として官能検査を行い、科学的な研究や、教育の機会をサポートしました。また、新しい判断法をトレーニングしたり、リフレッシャーコースの設立にも従事しました。

2003年、市の権力者がアルバの白トリュフ祭り協会を設立しました。その組織は市とアルバの店主協会、そしてGiosta delle cento torriによって構成されていました。アルベルト・チリオが最初の議長で、続いてアントニオ・デジャコミがそれを継ぎ、トリュフフェアや色々な街のお祭りを企画しています。国際的に宣伝することを目的とし、大小さまざまのワイン製造業者の協力の下に活動しています。伝統と進歩を求めるレストラン経営者は増え、その質も上がってきています。名声と魅力を備えたトリュフはいわずもがな、ワイン製造や観光などに魅了され、この地に根を下ろすシェフもいます。トリュフ採集と選別と販売、そして調理、おもてなし、観光サービスの専門スキルが調和して、この自然の贈り物をと結びついて、本当の「トリュフ地区」というものが形成されてきました。