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美食について |
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この世に生を受けて生きる喜びと感じられるものは、夢に向かってこれを実現すること、森羅万象に至る感動のひと時を心の通う友と杯を交わすこと、快眠をむさぼること、素敵な異性とデートすること、うまいものを食べうまい酒を飲むこと、など無数にある。
しかし、生きていくために最も必要とされるのは生まれてから死するまでの間にとり続けなければならない毎日の食事である。カロリーを摂取しなければ、人は生きていけない。そして、この「食事をする」ということについて言えば、その人の生まれた土地、生い立ち、環境によって、最小限度から最大限度にまで内容に違いが現れてくるのである。生活に厳しい環境では、生きるために最小限度の摂取カロリーとビタミンを摂ることが要求される。食料に不自由なしに暮らせる地域では、カロリー摂取に加え、どのようにすればおいしいものが食べられるかという問題がテーマになる。
最近のわが国のテレビ番組を見れば、これでもかこれでもかというほど、料理や美食に関する番組が多く見受けられる。こんな現象が見られるようになったわが国は、ある意味では、国家の理想を実現していると言えなくもない。王侯、貴族ではなく、ごく普通の全ての国民が、このように美食を楽しむことができるようになってきているのである。銀座や青山、六本木、代官山などの町を歩けば、ありとあらゆる国の料理店が、通りのあちこちに見られ、選択に迷うほどである。しかもそれぞれの店は日本の金満振りを象徴していて、インテリアも立派に仕上がっており、もちろん料理に関しても日本人シェフの繊細な美的感覚によって本場を凌ぐ感じさえするのである。そういう点では日本は世界に冠たる美食天国とも言えよう。
それでもまだ、洋食に関しては、大企業や諸官庁が集中する一部の都会に見られる現象であって、全国津々浦々に至るまで見渡したときには、日本食に関しては素晴らしい料亭が全国をほぼ網羅しているものの、ことフランス料理やイタリア料理、その他の外国料理に関しては、まだ発展途上にあるといえよう。しかし、近年、イタメシブームといわれる現象によってイタリア料理店が全国的な広がりを見せているので、そのうち、日本全国のどの地方都市でも、洋食を代表するものとして、いくつかの立派なイタリアンレストランが必ず人気を得るようになるだろう。
日本料理はさすがに長い歴史と伝統に裏打ちされ、店も職人も客も一体となって、「食」の場を盛り上げている。この点に関しては、わが国の食に関する文化の優越性を世界に強調できると言えよう。
しかしながら、フランス料理店などで見られる店側の対応や客の様子などからは、次のようなことが言えるだろう。いままでのフランス料理店では店や客が作り出す雰囲気にぎこちなさが感じられたものであるが、近年の10年において店側のサーブも急速に改善されて心地よいものになってきていることは事実で、欣快に耐えない。ワインブームなどもあってソムリエたちの活躍も著しく、メートルドテルも(給仕長)さりげないサービスで食事の場を楽しくさせてくれるようになった。まず何よりも、若手シェフによる工夫と研鑽が本場をさえ凌ぐ腕前になってきてメニューが豊かになってきたことを見逃すわけに行かない。
20年ほど前だろうか。パリの老舗で昭和天皇も訪仏の際にお立ち寄りになったことがある鴨料理専門のレストランが日本で初めて某有名ホテルにオープンされたので開店1ヶ月ぐらいのときに食事に出かけた。未だ開店間もないこともあって、メートルドテルやギャルソンが張り切りすぎていて、こちらはゆっくり食事をしたいと思っているのに、メニューの内容はどうだとかこうだとか、必要以上に解説してくるのには辟易したことがある。しかも、それぞれの係りの存在が必要以上に強調されていて、最も必要なときに、さりげなく振舞うべき動作に欠けていて失望したのである。
食事の時間はゆっくりくつろいで、美味を愉しむことであるのに、これでは料理の講習会とかテーブルマナーの勉強会に行ったようで落ち着かないことこの上ない。そんなわかりきったことを、いちいち説明されなくても、自分の方がサーブする人以上にはるかに美食に慣れ親しんでいるのにと思う人もいるであろう。その様な事は丁寧というよりむしろ失礼なギャルソンと思われるに決まっている。聞かれたことに答えればよいのである。
今はさすがに有名ホテルに入っている店だけに、サービスも洗練されてきていると聞いているが。このようなことは、まだ地方の店や東京などでも新しく開店したばかりの店などで見かけられる。真のサービスとは、客が何かを知りたがっている、何かを欲しているという挙動を確認したときのみ、さりげなく対応すべきなのである。たとえば、ホテルリッツやクリヨンなどのサービスと比較してみると違いは明らかである。パリのホテルリッツは200に満たない客室の、日本でいえば、ごく小さなホテルであるが、その中で働いている人間は600人前後だという。1室あたり3人が配置されているわけだが、何度訪れてみても、そのような大量の人が働いているとはとても思えない。
ダイニングにしても、人影まばらということはないが、とりたててギャルソンの動きが目立つということはない。しかしながら、客のほうで水が飲みたい、メニューの選択に迷っている、ワインはどれにしようなど、少しでも用事がありそうな様子がうかがわれるときには、どこからともなくスーッとそばに来て、こちらの事情を的確に把握し、さりげなく対応してくれて、すぐさま処理してくれるのである。最初のうちは、あまりにもスムーズで、かつ、さりげないので、気にも留めなかったが、何度か出入りすると、その繊細極まりないサービスに驚くべき配慮を感じるようになって、少しばかり勘定書きが高くついても十分に納得する様になるのである。
もちろんホテルリッツのサービスは別格と考えてよいのだが、フランスやイタリアのレストランに入って感じることは、このような配慮に満ちたサービスというものが、一部の超高級店に限らず、町の人口が1万人に満たないような片田舎のレストランでも、納得できるものに出会う場合が多いということである。
その点、日本ではまだ歴史が浅く、決して責められるわけではないが、そろそろ習熟していただいて、もっと食事を楽しめるようになっても良い頃ではないかと思っている。
最近はテレビでも料理に関する番組は驚くほど多く、うれしい限りである。中でも、某テレビ番組で視聴率を上げることに貢献した服部氏や石鍋氏、坂井信行氏などは、日本全国に広くフランス料理というものに対する知識をひろめ、素材などを紹介したことで特筆すべきものがあろう。もちろん陳健一氏や周富徳氏、道場六三郎氏もそうである。日本全体が料理に関して、貪欲なくらい、関心を高めたのは、これらの料理番組が茶の間に多く放送されるようになってからである。いまやチャンネルをひねれば、かならず、どこかで料理に関する番組が放送されており、食べる側の人たちの関心をいやが上にも高めている。
西洋料理にワインは欠かせないものである。ワインの世界でも田崎真也氏のような世界大会でグランプリを獲得したソムリエが出現し、雑誌やテレビに登場しては、さまざまな料理との相性によるワインの紹介、また、それぞれのワインの特性について紹介したりして、日本人の食と酒に対する興味をいっそう高まらせた。これはまた、家庭における西洋料理、材料や家庭におけるワインの消費に結びついて、我々の食生活に潤いと豊かさをつくり出してきたと言える。
今やフランスにおいて、イタリアにおいて、それぞれの有名レストランに日本人従業員のいないことは無い。こんな場所にもいるのかと思われるほど、修業を目的とする若者が働いている。もちろんその結果として、シェフなどの重要な仕事を現地で任せられる人達も多くなっている。また、充分に修業を積んだ後で日本に帰り、レストランの厨房を任せられている人たちも多い。今では何も本場に行かなくても、溢れるような料理情報、食材調達などの助けもあり、居ながらにして充分に料理技術の習得が可能なまで、日本の料理界の内容は高いものになっている。
有名シェフについては、雑誌、テレビなどに登場する機会も多く、全国的にもよく知られている。ここでイタリア料理のシェフについていくつかの例を挙げてみようと思うが、現在、日本で活躍するベスト30のシェフのそれぞれは、本場イタリアに行っても、ベスト30位に入るだけの技量を備えているのではないかと思われる。日本人客のニーズや店の経営方針などにより、また、利潤も考えなければならず、本場ほどにメニューに多様性は持たせられないかも知れないが、料理そのものの腕前はむしろ本場以上のものを持っているのではないかと私は思う。
ホテル西洋銀座のイタリアンレストラン「アトーレ」の室井氏には親しくさせてもらっている。私の会社はピエモンテ州クネオという町にあるイタリア高級食材メーカーであるイナウディ・クレメンテ社の日本総代理店をしているが、室井氏は若い頃にこの近郊のレストランで修業したことがあり、イナウディ氏は彼を知っていたのである。そのイナウディ氏からは良く室井氏のことを聞かされた。いわく彼が日本に帰ることは止められなかったが、彼ほどの腕が有れば、イタリア中のどこの店に行っても有名シェフになれるだろう。日本ではどうなっているのかと。私は、日本でもやはり大活躍をしていると答えるのだが、イナウディ氏は、彼ほどの腕なら、イタリア最高のイタリアンレストランで腕をふるって欲しいのにと言って悔しがっていたほどだ。
ちなみに室井氏はポルチーニやトリフの仕入れのために、アレキサンドリアのレストランにいるとき、しばしばイナウディ社の客になっていたのである。イナウディ社のクレメンテ社長は、アルバのトリフやピエモンテのポルチーニを仕切る立場にいて、イタリア中の有名レストランのシェフのみならず、ヨーロッパの王族や、高級食料店に通暁しているグルメ中のグルメである。
アルポルトの片岡氏、アルポンテの原氏、アクアパッツァの日高氏、エノテカピンキオーリの辻氏、カステッロの山田氏、ジャルディーノの石崎氏、ダ・ノイの小野氏、ヒロの山田氏、ベットラの落合氏、ペペ・ロッソの遠藤氏、ラ・ゴーラの澤口氏、リストランテ山崎の濱崎氏など、皆さんご存じの有名シェフの方々も仕事を通じて日常にお世話になっている。しかしこのような極めて優秀なシェフの方々に限らず、今の日本では若年の実力のあるシェフが次から次へと輩出しているので、ベテランのシェフといえども、のんびりとはしていられないであろう。
このような食の環境の中で、多彩な料理を通じて味を判別する顧客のグルメ度もますます高まっている状態であると言えるだろう。
いくら料理人がよいものを作っても、食べる方にその反応がなければ、次第に料理の方も質が落ちていくし、しまいには、つまらないものになってしまう。イタリアという国は食以外にもファッションとか歴史の遺跡、そして美術や風景にも見るべきものが無尽にあり、またサッカー熱も高い、その結果として、若い学生から老人にいたるまで、日本からイタリアへ出掛けていく旅行者が増えてきた。それによって、本場のイタリア料理を口にする人々が多くなり、現地の高級レストランで食事をして帰ってくる日本人も増えた。食材に関する情報もあふれている。客側の人間は、少しばかり味の良い料理では満足できなくて、次から次へとオープンする人気店での食べ歩きをするようになってきている。今では客から、ああすべき、こうすべき、といった注文が正確に出てきているように思われて、シェフの方々のご苦労が思いやられる。
美食をするということは、衣装の贅沢と並んで庶民にとって、最も贅沢な愉しみに思えるが、衣装は一度買えば何度も利用できるのに比べ、一晩のワインを楽しみながらの高価な食事というものは、5〜6時間もすれば完全に体内から消え去るので、その意味では、なによりも贅沢な行為と言え無くはないであろう。しかし、舌先に残る味覚の余韻や、食事をとりながらの親しい者との語らいは、心の中に深く残ってこれこそが至福の時と思わせられる。日本人が生活のために働き、ものには何不自由なくなってきた最近になって、本当の暮らしの贅沢が味わえるようになったのである。その点では、これ以上に結構なことはないと思われるのである。
私(1944年生)が社会に出た頃は、先輩から、カツ丼をごちそうしてやると言われれば心から喜んだものだし、それ以前には、デコラのテーブルに安っぽいビニールパイプの椅子の安食堂(当時全国的にどこにでもあった)で支那ソバをごちそうすると言われても嬉しかったものである。
このことについては前にどこかで触れたが、アメリカやドイツやイギリスの人達の食卓では、ビタミンとカロリーの摂取さえ満たされれば、味はどうでもよいといったような共通するものがあるように思われた。それが、農産物の品種改良による凶作の心配が無くなったこと、経済力の向上、そして流通網の発達などによって、食への関心も次第に高まり、ついには、美食にいたるようになったことと同様である。私の推測では、20〜30年もすれば、アングロサクソン系の国でもゲルマン系の国でも、それぞれの特徴を打ち出しながら、飽食の後に真のグルメ文化が育つに違いないと思っている。いわく西洋には、グルメ(美食家)になるためにはグルマン(大食漢、食道楽)の時を経なければ到達しないといわれる通説があるが、これらの国の人もこれからグルメの方向に向かうのではないかと考える。
さて、著者自身が食品の素材を求めて世界を飛び回るという仕事をするようになったきっかけについて述べてみたい。私は1944年、つまり日本が敗戦を前にした戦時下に、東北の片田舎に生まれて、ビタミンとカロリーの補給をすれば、食事にいちいち苦情を申し立てることのできる環境では育たなかった。しかし、生家の家業は穀物や油糧等を扱う、今で言う農家相手の農協のような仕事をしていた関係で、倉庫の中には小豆や馬鈴薯を始めとする農産物が100トンとかの単位で山積みされていたのである。したがって神田の青果市場や名古屋や大阪の各市場から商品にクレームがきたとか、あそこの商品の質が良いとか悪いとかという話題を子守歌のようにして育ったのである。
殊に羊羹で有名な虎屋黒川に納入する大納言小豆については、おばちゃん達がずらりと並んで、一粒一粒最良質のものを調達すべく作業をしていたその姿を見て育ったのであるが、そのことから世間には食のレベルというものがあるという事について自然に知らされたようにおもえる。
青森での高校時代、同じ高校の一級下の後輩の勉強を見てくれと、通学に難のある冬の時期に限って、三食付の下宿を無料で提供していただいたことがある、ここも青森を代表する珍味で有名な家庭の長男だった。その後、大阪で住友信託銀行に入社したが、途中で大学受験に転じ、その後気分転換のため、京都や奈良の古寺、遺跡を巡りたくて、ある方の紹介によって京都で三食付の居候のアルバイトを許されることになるのだが、これも珍味屋であった。
居候を許される替り、毎朝京都駅に荷物を取りに行くことと、一日3〜4時間オートバイで品物を配達するように言われたのである。嵐山の吉兆や、三条京阪の辻留や、木屋町のたん熊、そして大阪のなだ万や花外楼、有馬温泉の古泉閣、甲陽園のはり半など、今にして考えると、日本の名店と言える料亭には、毎日のように出かけて、勝手口から入り込んで、調理場に珍味を届けたのである。貴船のふじや、ひろ屋には二日おきに行った記憶がある。そのようなことが、京都の古都見物をしながら三ヶ月ほど続いたのである。
その頃の私の将来に対する思いは、外交官や政治を志すことにあった。現在の地中海フーズ株式会社を創業する、あるいは食に関係する商売に関わるなどは、その頃は全く予想だにしなかったのである。天下国家のありようにしか興味は無かった。しかしながら、そのようなアルバイトを続けながら、将来社会に出たら、いずれの日にかこのような場所に来て食事ができたら良いだろうなあと思う程度で、その時点では単純な憧れに過ぎなかった。
しかし、人生は、考える方向とは別の方向へ動きだし、やがて土地開発業務に携わるようになるのである。ある程度社業も順調にいって、接待や飲食の機会が頻繁に増えるにつけ、それまで勝手口から出入りしていた店にも、20台後半には客として出入りするようになり、その殆どの店で食べ歩きをすることが楽しみになったのである。好きな京都へは頻繁に出かけ、特に貴船にはよく出かけたものである。
その当時は社業も順調過ぎるほどに順調にいき、仙台の国税から一週間近く三人の査察官が来て調べられたこともあり、また面白いことに三億円事件の犯人ではないかと警察に密告するものがあって、電話などで、時の捜査官平塚八兵衛氏とやりあったこともある。当時の顛末は、青森県警や野辺地警察署に残っているに違いない。むろん、私の無罪は仙台の国税による査察によって理路整然として解決されているのであり、今は笑い話であるが当時あまりにも頻繁に欧州旅行などするので、スイスの銀行に金を預けているのではと勘ぐられたらしい。
私が食べることに興味を持つようになったきっかけのひとつには、現在、青森県、特に南部地方で知られている「スーパー・ヤマヨ」の創業者島谷勘吉氏との出合いも関係している。彼は30年ほど前には、老舗の魚屋の二代目であった。兄の同級ということもあって、隣の町で事業所を開設した私の良き理解者でもあった。朝、市場に行って来ると、その後、昼寝から始まって就寝にいたるまで、一年365日のうち350日ぐらいの時間を私の事務所と自宅で過ごすようになったのである。もちろん、始終新鮮な魚や珍味を携えてのことである。
スーパーという小売りの形態が国内に普及し始めた頃、島谷氏もスーパー業界に乗り出すべき時期を迎えていたのである。ちょうどその頃、私もアメリカに用事があって、アメリカに行くと言い出したら、一緒にオレも行くといいだし、結局五週間にわたって、全米、カナダの要所を視察したのである。その際、彼の食に関する知識欲には貪欲なものがあって、旅行中、美味なるものを求めて、毎日あちこちへとくり出したのである。その時にニューヨークやメキシコなど各地で一流のレストランを食べ歩いたことも若き日の思い出だ。
しかしながら私の旅行歴の始まりは決して美食をもとめてのものでは無かった。そのことは今でも変わらないが、結果的には口に合う食事を求めて意識するしないにかかわらず旅程が組まれている事については否定できない。おいしい食べ物をが出すレストランがあれば急遽旅程を変えたりする事が頻繁だからである。
その結果、これ以上カロリーをとりすぎてはいけないとドクターストップがかかっている状態で、自業自得というべきなのであろう。
地中海太郎
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