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パリ・ダカ、ラリーと、カサブランカまで併走 |
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パリ・ダカールのラリー出場者に混じって、ステージ以外の一般公道を移動する際に、カサブランカまで約500Kmにおよぶドライブをした時のことである。スペインのアルヘシーラスからフェリーで対岸のモロッコのタンジールに、向かう船中で、ラリーは今夜、タンジールに泊まり、翌朝、港の前からカサブランカに行くとの情報を得たので、タンジールに宿を取って翌朝に備えたのである。ところが、後続の便で来たカミオン(トラック)、セダン、オートバイのラリー群が、港に着くやいなや、けたたましい排気音をたてながら、暴走族などの比ではない、大集団でタンジールの町を抜けていったのである。タンジールが、アフリカステージのスタートと思っていたので、再確認すると、スタートはラバト(首都王宮のある)が明朝8時であるとの返事を得て翌早朝の3時半に起きるとラバトまでの300Kmの道のりをスタートに合わせて激走したというわけだ。
この話題に触れるのには他に理由がある。タンジールからマラケシュの間はなだらかな起伏のある単調な山坂を幾度も超えていくのだが、その間の早朝から300Kmに及ぶドライブは、ものすごい深い霧というか朝靄が発生するのである。早朝には年中このようなことがあって、天の雨に頼らなくてもこの霧によって作物が守られているとの話を後で知ったのである。高速100Km前後で20〜50メートル先しか見えない片側一車線の道を、絶えず事故の危険を感じながら、センターラインの白いラインだけをたよりに3時間走り通したのも、パリダカのスタートに合わせるために必死だったのである。とにかく、この時のモロッコの朝霧には悩まされた。ドライバーは以前レーシングドライバーを志したこともあるフリーターの青年だった。首都のラバトからマラケシ(マラケッシュ)に至る間には北アフリカには珍しく高速自動車道が通っていた。
話は変わるが、このときは自分の1回のドライブ旅行としての走行距離は最高で、シリア、トルコを経てヨルダン国境で車を返却し、改めてリビエラをはじめとする地中海沿岸都市をスペインのアルヘシーラスまで行き、さらにカサブランカからフェズに抜けて、スペイン南北を縦断し、ボルドーからクレルモン、リヨン、雪のシャモニーを抜けてミュンヘンまで、7ヶ国を約7000km駆けめぐったのである。
今は57歳になり、このような強行軍の旅をする気にはなれないが、10年前まではこれ位は平気であった。仕事の関係もあって、イタリア、プロヴァンス、スペインの海岸線2000Km前後の間は何度もドライブしているので、その幹線に出たり入ったりして、かなりこの間の事情には明るいつもりでいる.旧ユーゴの南ややアルバニアそしてリビアやアルジェリアの海岸線は連続して走破はしていないが、特徴的な場所をピックアップしながら、部分的に旅をしているのである。トルコに関しても、ある程度、ドライブ距離は長いが、とぎれとぎれに出入りをしている。
モロッコに関してはタンジールから南端に近いアガディール(イワシの水揚げでは有名な港であり、ビーチのリゾートも南仏のように素晴らしく整備され、モロッコ随一の海洋リゾートである)を通り、アトラスを越えてワルサザートまでと、カサブランカ、フェス、タンジールを何度か走っているので、かなりのモロッコ通を自負している。
話がとびとびになるが、王宮や行政府のあるラバトの周辺は豊かな大地で、モロッコ全土を支えるに足る生産量を誇っていると書いたが、農産物の種類は他の地中海世界とほぼ同じである。ただ、この地域の圃場は非常に良く整備されていて、各農場の周辺にはオリーブ林やコルク樫の木やユーカリの大木が林を形成したり、街路樹となったりして、ドライブしていても心安らぐのである。深夜から早朝のあの霧や朝靄の賜物なのであろう。またメクネスにはローマ時代の植民都市ホリビュルスがあり、地中海は東の果て、シリアに起源を持つ後ウマイヤ王朝の氏族によるイドリス朝の古都ムーレイイドリスなどの町があって、それらを思う時、「つわものども」の夢の後を思わずにいられない。
初めてカサブランカに着いた翌朝の印象は、エキゾチックな気分で、ああ、あのカサブランカに来たかという感慨を持ったが、マラケシュに旅をしてから先は、カサブランカは単に交通の便による利用に過ぎなくなって通過するだけのことになってしまった。
南の港湾都市アガディール周辺は、日本で消費されているオイルサーディンの7割近くを供給している水産加工業の発達した町である。アガディールブルーともいえる表現しきれないほどの、大西洋の海の碧さは生涯忘れ得ぬものである。
地中海とは単にイタリアまでの海ではない。テレニア海、アドリア海、エーゲ海をも含んで広義に地中海と称するのであって、その総面積はロシアをのぞくヨーロッパがすっぽり入るくらいの大きい海なのである。
この海域は、位置的にイタリアを挟んで、東に西に、南に北に、およそギリシャ、フェニキアから始まる4000年強の興亡の歴史があり、尽きることのないロマンを満たしてくれる。ポエニ戦争のハンニバル、ペルシャ戦争のダリウス王、シーザーとアントニウスのクレオパトラ、アレキサンダーの遠征があり、近世にはエジプト遠征における兵士を前にした「4000年の歴史が諸君を見ている」と激励したナポレオンがいる。
ワルサザートというサハラ砂漠の玄関のひとつとも言える小さな町がある.マラケシュからアトラスの山越えをして、サハラの入口に入るのだが、荒涼とした乾燥しきった赤土の町は我々砂漠を知らないものにとっては、極めて印象深いものである。ここから南へ西に、サハラ砂漠は果てしなく続くのである。最近エルフードなどのカスバ(要塞の町)を通じてフェズに抜ける観光ルートが開かれて、カスバ街道と呼ばれているらしい。若い頃なら走破したいと思ったに違いないと思うが、砂ばかりの果てしないドライブは、単調なことを考えればもはや行く気になれない。
30代前半の頃、マラケシュで言葉が通じないので、数カ国語に堪能で親切なブラッヒム・アガザンという当時20代中頃の敬虔なイスラム教徒の青年ガイドを雇って旅をしたことがある。今でもアラブの国を車で旅をすることになるとガイドが必要な場合があるが、その理由は簡単である。まずは、奥地に入るほどに英語が通じなくなるからである。以前は日本人観光客などいなくて、日本人という民族を知らない人が多く、必ずシノワが来た(シノワ=中国人)と声をかけられたものである。その他に大きい理由としては、道路標識が全く不備で、あった場合でもアラビア語しか表記されていないからである。
宿や食事については、最悪の場合は、身体に新聞紙を巻いて、パンをかじっていれば何とかなるのだが、この広大な土漠や砂漠に迷い込んだらと思うと、ガイドに頼らざるを得ない。幹線からはずれれば、地図などは当てにはできないのである。
パンをかじるというと思い出すことがある.以前マラケッシュからフェスに向かうドライブの途中で、ドライブインらしき場所をみつけて入ってみたのだが、メニューらしきもののない粗末な食卓に腰掛けて注文をして待つ間キッチンの状態をみて驚いたことがある。皿を洗うのにもドロドロして汚れた、わずかばかりの水でナベ洗いなどにして、ギトギトした皿をそのまま使用するなど、そのためいっぺんに食欲をなくし食べることなくそこを立ち去ったのだが、その後行けども行けども人家まばらなドライブルートでは食べ物にあり付けず、途中でベドウインのテントに駆け込んでパンを分けてもらったことがある。その時焼いてくれたラクダの脂身のサンドイッチは今思い出しても格別のものであった。
北アフリカなどはインドや東南アジアなどと比べて湿度がひくいので皿やなべ釜をきれいに洗わなくてもそんなに不潔におもうことはないのだが、以後この地域の地方を旅をするときはインスタントやレトルト食品を携帯する事が多くなった。もっともこれにはもう一つの理由があって、どうも私にはアラブ料理に多用されるクミンやターメリックの香辛料があまりにもきつくて口に合わないのだ。
これらの国々の中でもフランスの植民地支配を受けたモロッコなどの観光地には、パリの一流店にも劣らない味覚を持ったレストランがあり、むしろフランス料理を食べるためだけの理由でもモロッコに出かけたいと思うのだが、それはカサブランカやアガデール、マラケッシュやフェスといった国際的に知られた場所に限られている.無名の地方での状態はまったく違う、それと先述の調理場の洗いものについて考えれば、日本のように水をジャブジャブ使える国こそが珍しのであり、この事は北アフリカ諸国やトルコ、ギリシャ、スペインにしてもてある程度共通しているようにおもえる。
以前、ベニメラルという小さな町に宿を取って、その夜星空を見るために町を歩いていたら、いたいけな子供が手を振って呼んでいるのに出会ったことがある。その子が私の手を引いていくので、ついていくと、30前後と思われるベルベル人の婦人がおり、1ドル恵んでくれと言うのであった。何のことはない。1ドルで売春を申し込まれたのである。自分の娘が母親に頼まれて客引きをしていたのであった。ようするにとても貧しい原始的な暮らしぶりがこの地方では珍しくは無かったのである。ホテルカサブランカは当時一泊30米ドル位であったのでこれを参考までに書いておく。
この話には後日談があって、帰路カサブランカに出て、1〜2泊した折りに町を散歩していたら、日本人を見かけた。珍しいことだと思い声をかけたら、海外協力隊の隊員でカサブランカにオートバイの修理を教えるために2年ほど滞在している人であった。確か奈良県出身の立石君という青年だった。当時カサブランカなどに日本人の観光客が訪れることは珍しく、お互いに話が弾んで、午後に、すすめられるままに、彼の宿舎を訪ねたのだが、3DKほどの広さの所に5〜6人の海外協力隊の方々が畳を敷いて共同生活をしていた。情報収集のこともあって、ビールを空けながら、いろいろな話をした。先に述べたようなことも話題のひとつになった。ペルーやパキスタンを廻ってカサブランカに滞在中のその青年は、「1ドルの言い値は安くない。自分はワルサザートの近郊のカスバで日本円50円を支払って一夜を過ごした」と言った青年の顔を今でもかすかに覚えている。
砂漠や土漠を旅していて、誰もいないと思われるだだっぴろい大地で、どこからともなく人が湧き出てくること……には驚かされた。砂漠や土漠のなかで、車から降りて小用を足すときが何度かあったが、その途端、どこをみても一望千里の土砂漠のなかから、こつぜんと人がわきあがってくるのである「湧き出てくる」という形容がぴったりなのだ。後で知るのだが、彼らは隣のベドウィンやベルベル人同志のテントに移るとき、そしてその他の目的で徒歩の旅をするとき、土漠の最短距離のルート上や、バス停などでいつ到着するか時間の定まらないバスを待ちながら、土色の麻袋のようなジェラバという着衣をすっぽりかぶって、フードで頭を隠し、あちこちに寝ころんでいるのである。
ベルベル人は、Berbergia(バルバジア=野蛮人=バルブロイ)と呼ばれ、その語源にもなっているようだが、その他にベルベルとは物音がしない、静寂という意味があると何かの本で読んだことがある。彼らのとぎすまされた聴力や視力は車の音や、異邦人の動きを一瞬にして識別できるのであろう。しかも大地からわき上がるように忽然として現れるのである。これは砂漠を旅しながらながめた、夜空の降るような星とともにけっして忘れることのない印象を与えてくれた。虚飾が無く夜空の星を眺めながら、少ない物資を上手に生活に活かして暮らしているベドウィンの遊牧の民は、どこかもっと深遠な人生哲学に基づいて毅然として、人生に立ち向かっているかのように思える。
中東の人、いわゆる砂漠の民としてあの長い衣服(色やずきんなどで種族を表す)をまとうのには理由がある。ジェラバは旅の途中に大地に横たわったり、砂嵐の時は頭巾で顔を保護したり、強烈な日射を避けるため、そして寒いときには防寒の役目を果たすために、無くてはならない民族服なのである。
私も記念にそのジェラバを買って旅を続けたことがあるが、なるほど快適重宝なものであった。旅をするたびに奇異に思うことや、生活習慣の違いによる珍しい習慣に出くわすことがあるが、それらは、それぞれの風土の中で、無駄のない合理性に裏打ちされた結果なのである。まず、それをおかしいとかではなくて、どうしてそうなのかという風に考えていけば、納得がいくのである。旅をすることは、民族の壁を越えて共生することが大事だと多くの教訓を得ることにつながるといえよう。
地中海太郎
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