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  世界文明の十字路イスタンブール
イスタンブールほど面白く興味深い都市は世界中に存在しようか。此の国に重層に塗り込められた歴史によって、栄華を誇ったローマ帝国を作り上げたイタリアでさえ対抗できないのではと思えるほどに、尽きない興味を与えてくれるのである。それは一言で言い表せない多様な民族と文化の混交により、此の国が成り立っているからである。これに比べれば、エジプト文明でもローマ文明でも、スケールを別にすれば単調な歴史にしか思えないほどである。

イスタンブールは、はじめビザンティウムと呼ばれていたが、東ローマ帝国の時代に、コンスタンティヌス帝の支配によってコンスタンチノープルに名称が変わり、さらにはメフメット二世のオスマントルコに支配されるに及んで、イスタンブールに改名させられたのである。ビザンティウムと呼ばれた時代は、アテネの植民都市としてスタートしたらしい。

このイスタンブールの町を逍遙すれば、様々な顔立ちの人達に出会う。トルコ人の他、ギリシャ人、ユダヤ人、クルド人、アラブ人、モンゴル人、カフカス人、ペルシャ人など、ありとあらゆる民族の顔立ちの人がそこに住んでいる。それよりむしろ、1人の人間の中に、それらの血が全部混じっているのではないかと思わせる人達も多くいて、まさしくここは、民族の博覧会場のような多様な人達が暮らす大都会なのである。各地方に行けば、土着の民族が、民族毎に住んでおり、比較的混交しないで生活しているのであろうが、このイスタンブールは、文明、文化の十字路と言うべき土地柄である。民族の博覧会場という言葉が世界でもっとも相応しい都市なのである。

このイスタンブールの町は、ボスポラス海峡を隔てて、ヨーロッパ大陸とアジア大陸の2大陸に分かれている。ヨーロッパ側は市の中心街を形成しており、アジア側のウシュクダル地区は住宅街を形成している。朝の出勤時にはアジア側の居住地からボスポラス海峡をフェリーで、あるいはボスポラス大橋を車で、ヨーロッパ側に出勤する人たちでごった返し、夕方は、その逆である。このような壮大な出勤風景は世界中さがしてもここだけであろう。ちなみにヨーロッパからの鉄道の終着駅はシルケジ駅であり、アジア側終着(始発)駅はハイダルパシャ駅である。そこからフェリーに乗れば10分そこそこで向かい側の別な大陸に着くのであるから面白い。

現代のヨーロッパ文化に多大な影響を与えたのはギリシャ文化であり、次にそれを継承した形のローマ文化が影響を与えている。トルコとギリシャは隣接しているため、相互に影響をし合ったといえるわけで、当然のことながらギリシャ文化を通じてトルコの西欧への影響もあったわけである。スラブ社会へも黒海を横断して深く入り込んだに違いない。

トルコへはアジア側からはペルシャ、すなわち今のイランによる侵略もあり、反面アレキサンダー大王の東征によってギリシャ文化も、そしてイランやインド文化の移入もあったに違いない。

モンゴルすなわち、タタールやスキタイの影響もあったにちがいなく、こうしてみればトルコとトルコを代表する歴史的大都会イスタンブールは、黒人世界やポリネシアなどを除けば、ありとあらゆる民族が入り込んでいることが納得できるであろう。別々の場所に新しい文化が根づいたり、また、前の土地の上に更に新しい文化が重層的に張り付いて、次第に今日の形成を見せるに至ったのである。トルコの文化は歴史的にはビザンチン文化と呼ばれており、帝国の華やかなりし頃は、世界に最も広く影響を与えていたのである。

イスタンブールのみならず、この国全土の歴史的遺産は驚くばかりである。イズミールへの途中のトロイ遺跡周辺には使徒パウロが生まれているし、聖女マリアの墓地もそこにあると記憶している。エーゲ海沿いにはヘレニズム文化の花が開いたベルガマもある。アンタルヤはセルジュークトルコ朝の港町として、かなり栄えた土地である。海岸線は地中海地方有数の景観を誇り、現在はリゾート地としてにぎわっている。アンタルヤの近くには素晴らしく魅力的なセルジュークトルコの古都コンヤという町がある。かなり神秘的な宗教的な踊りで知られているようだ。20年ほど前、バスでアンカラからコンヤに立ち寄って、アンタルヤに至り、イスタンブールに飛行機で戻ったことがあるが、その素晴らしくエキゾチックな雰囲気は、今でも鮮明に覚えている。

イスタンブールについては書くべきことがありすぎて、何から書けばよいかわからないほどである。旧市街の中心部イスタンブール大学に近い場所にグランドバザールがある。金銀細工や革製品をはじめとしてなんでも売っている。バザールの建物は驚くほど立派で、天井つきの壮麗なビザンチン風の由緒を感じさせる。エキゾチックこの上ない雰囲気の中で、ついつい財布の紐が緩んでしまい、後で必要ないものを買わされたと悔やむことになることは請け合いだ。ここから5分も坂道を金角湾の方向に坂道を下れば、日用品、生鮮品なども置いてある庶民的なバザールであるエジプシャンバザールに出る。香辛料のにおいが鼻について刺激的である。

坂道を左側に金角湾を見ながら5〜6分歩くと、ロシア側から黒海をわたって南下してくる観光船などが出入りする港に出る。旧ロシア体制が崩壊したすぐ後に訪れたときは、この辺りの路上には、旧ソ連の軍服やキャビアなどに始まり旧ソ連の高官が持ち込んだと思われる品物の数々が並べられ、あちこちで激しい客引きの声が行き交っていた。100g程度のキャビアなどが1〜2米ドル前後という信じがたい値段で売られていてびっくりした。もっとも塩分が強すぎて、お世辞にも上等のものとはいえなかったが、紛れもない本物であった。

思うに、これらの商品は、旧ソ連が崩壊するにあたって、政府高官を巻き込んだそれぞれの部門が、自由主義の窓口でもあるイスタンブールに来て、換金を図った結果に違いない。当時(1990年末ごろ)は、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国の人たちも、無数に路上に市を開いていて、安ホテルに泊まった際には、それらの行商人で混雑していたことを記憶している。

自分の国から品物を持ち込んでそれを換金し、物々交換などしてそれをまた本国に持ち帰って換金するといったことを繰り返す商行為が、旧ソ連をはじめとして目先のきいた連中によって始められたに違いない。現在の経済マフィアといわれる人たちの原点もここからスタートしたかもしれないと考えている。

旧市街には、ブルーモスクの愛称で親しまれるスルタン・アフメッド・ジャミイや、東ローマ帝国時代に建造されたギリシャ正教会でその後イスラムのモスクとして使われているアヤソフィアがある。イスタンブールの朝は、夜明けとともにこれらのモスクのミナレットからスピーカーで流されるコーランの音で目覚めることとなる。それはそれはとても印象的で、エキゾチシズムに満ちた夜明けとなる。イスラム諸国にとっては普遍的な日常である、独特のあとをひくようなコーランの読経(アッザーンという)も、普段聞きなれない日本人にとっては、遠い国に旅してきたという感慨を持たせてくれるものになるだろう。

メデゥーサの首を水中に逆さにして礎石としているのはイエレバタン・サライとして有名な地下宮殿である。100メートル前後の長方形の地下を300本あまりのコリント様式の柱で支える地下宮殿は、トプカプ宮殿の飲料水を蓄える水がめとして建設されたものであるが、素晴らしく立派であり、単なる貯水池などと呼ぶことがためらわれる壮麗なものである。以前ジェームスボンドの主演する007の映画でここを舞台にした印象的なシーンがあったように思う。

数限りない見せ場の中で、イスタンブールを代表する見所といえば、なんと言ってもトプカプ宮殿であろう。中国陶器や日本の古伊万里などの収集品も充実していて、これらのコレクションではドレスデンの美術館にも匹敵するといわれている。巨大な世界最大級のエメラルドや謁見の間の金の玉座などは、あまりにも豪華すぎて声も出ないくらいである。日常、宝石や貴金属が好きで多少無理をしてでもこれらを買い求める人も、ここに行けば自分の趣味もケチなものに思えて、いやになってしまうのではないかと察せられる。トプカプ宮殿にはまた、美女たちのハーレムがあり、「宦官」たちもからんで繰り広げられたサルタンとの生活を隔てる間仕切りの構造も面白い。

1000人前後の人が働いていたというキッチンも見ることになるのだが、ただただ驚くばかりである。トプカプは一見すると、ベルサイユやベルベデーレ宮殿などと違い、外観はそんなに立派に見えず、むしろ質素に見えるのだが、内容的には世界に冠たるトルコ帝国の偉大さを伝えるに十分な場所である。

宮殿からは、マルマラ海を通行する船を全て見渡すことができて、しかも金角湾に照り映える夕陽を眺められる。これまた素晴らしい風情である。イスラム、ギリシャ、ローマの文化が混ざり合った独特の雰囲気は、ただただ感銘深いものである。かつてイギリスの名宰相ディズレリー卿が議会での演説の際に、ビザンチンの服装をしてトルコに関しとうとうと論じ議会を酔わせたことがあると鶴見悠輔氏の「グラッドストーンとディズレリー卿」で読んだことがあるが、むべなるかなと感じさせる。まだトルコを知らない読者には是非にトルコに旅してみたらと思う。

トプカプ、アヤソフィア、ブルーモスクは近接していて、歩いてすぐ近くである。坂道を下ればヨーロッパ大陸の鉄道の終点シルケジ駅に至るのだが、そこから目と鼻の先にフェリーボート(渡し舟といったほうが適切)が出ていて、アジア側と頻繁に往来している。ここからは歌で有名なウシュクダールやボスポラス海峡を通って黒海が近い。旧ソ連時代に最も重要であった不凍港であるオデッサなどにも行けるのである。

ガラタ橋というイスタンブールの人たちに日常的になじみ深い橋があり、イスタンブールの新旧の市街地をつないでいる。橋は二層になっていて基部の部分ではマルマラ海で取れるサバやイワシの塩焼きなどを出す料理屋が軒を連ねており、庶民的な雰囲気の中でアラック(水を加えると白濁する)などを飲みながら地元の人に溶け込んでほろ酔い気分になるのは、大きな楽しみのひとつである。こんなときは、味の良し悪し、清潔だとか不潔だとかにこだわってはいけない。あくまでも地元の庶民の生活を知りたいという気持ちで出かけなければならない。朝早くコーランを唱える音で目覚めたら、ガラタ橋かそこから1500メートルほどの南側にあるマルマラ海にある魚市場に出かけて見れば、とれたての魚が並べられており、見ているだけで楽しい。

ガラタ橋(200mもあろうか)を渡る前に旧市街の中でぜひたずねて見るべきものは、いわゆるトルコ風呂のハマムである。外観はさることながら、中に入った途端、その石造りの、小さな体育館ほどもあるような建物の中に、立派なひげをたくわえた壮年の男たちが客をてぐすね引いて待っているような感じである。ドームの中心にはどこからともなく蒸気が流入しており、そのむくつけき男の案内で、ちょうど一人が横たわれるほどの石の台の上に身を横たえると、タワシのようなもので体を洗ってくれる。その後にコンパートメントを思わせる小部屋の中でマッサージをしてもらうのだが、彼らの力強いマッサージは、体がばらばらにされるのではないかと心配になるくらいである。しかし、その後は実に気分爽快この上ない。コースのとり方によっては、サウナ風呂が含まれる場合もある。

このトルコ式の風呂のことはハンマームというのだが、これは何もイスタンブールに限らず、シリアのダマスカスやモロッコのフェズやタンジールなどのイスラム世界に共通したものであり、日本のマッサージつきサウナなどよりはるかに贅沢な気分にさせられる。10年程前、日本に居住するトルコ人の抗議によって、かつてのトルコ風呂と呼ばれた歓楽施設は、ファッションマッサージなどという横文字名称に変えられた。その妖しげなものをトルコ風呂などと呼ばれたら、怒るのはあたりまえだろう。ハマムは元来、身や心を清める精進潔斎、いわゆる斎戒沐浴の意味があるのである。

庶民の生活になじんだガラタ橋を渡れば、イスタンブールの新市街であるタキシム広場に出る。ここにはかつてヴェニスやジェノバなどの商館が金角湾沿いに建ち並び、いわば租界のような場所であったと聞いている。坂の上にはヒルトンやシェラトンなどの近代ホテルや諸官庁の高層建築が建ち並んでおり、旧市街のような雰囲気とはおよそかけ離れている。それでもヒルトンホテルなどは、外観はアメリカンスタイルながら、内装はビザンチン風に彩られており、居心地がよい。

1970年頃、タキシムの小さいホテルに宿をとったとき、朝食の場には小生のほかに初老のドイツ人夫婦の観光客がいた。格別予定のない旅だったので、このドイツ人と何時間かいろいろなことを話し込んだ。最後にその初老の男の「今度アメリカと戦争するときは、イタ公抜きで、日本とドイツだけでやろう」という言葉があったが、それまでに何度もドイツやイギリスに行っている小生は、なるほどとドイツ人の日本人に対する素朴な親近感を感じたのであった。

トルコ人に共通して言えるのは、ほとんどの人がが旧ソ連に嫌悪感を持っていることである。これは、露土(ロシア−トルコ)戦争に痛めつけられたことに端を発しているように思われる。反面、対日感情は非常に良い。これは日露戦争で日本がバルチック艦隊をせん滅し、トルコの恨みを晴らしてくれた、という感慨を持つ親日家が多いからである。

トルコは第一次世界大戦後、敗戦国として分割され国土の大半を失ったのであるが、完全に解体される前に、救国の英雄ムスタファ・ケマルが立ち上がって、ぎりぎりのところで独立を成し遂げたのである(彼は後にケマル・アタチュルク(トルコの父)と名のることになった)。その後、彼は首都をアンカラに移したが、イスタンブールでも政務を執っていた。彼が最後に執務した建物では、時計が彼の死亡時刻にすべて合わせられ、止まっている。今でもケマル・アタチュルクは限りなく市民、いな国民に愛され続けている。

アンカラの郊外にケマル・アタチュルクの廟があって一度訪れたが、立派な石造りでありながら装飾を極力排除した建物で、厳粛さと質素を感じさせる廟であった。ムスタファ・ケマルの人柄がにじみ出ているように思われるものであった。

イタリアを主にした本書の内容も、歴史に興味引かれるトルコのこととなるとあれこれ紹介したくなるのだが、関心をもたれる方は、トルコやイスタンブールについて書いた紀行文などがあるのでそちらを読んでいただきたい。

カッパドキアへは、アンカラからバスで行くと便がよいのだが、このアナトリア地方は鉄を最初に作ったヒッタイトから始まる歴史があり、かつ陸路シルクロードによって古くから東洋と密接な関係があったのである。バスに乗るなりして、アジア西端のシルクロードを通ってキャラバンサライ(隊商宿)の遺跡で歴史を追想するのも悪くない。 トルコの東南端の湿地帯を大きく抱えた、アダナという聞きなれない空港に降り立ち、一泊したことがある。ここは、アナトリアや他のトルコの地方とは打って変わって近代的な工業都市である。広い洪積平野は紫色を帯びた土壌で覆われていて、乾季には一見、砂漠を思わせる不毛の地のようであるが、トルコでも有数の都市であり、人口も百万近い都会である。ここは、シリアとの国境にも近い。

トルコは国土が広く、東部にはノアの箱舟で有名な海抜5000メートル級のアララット山があり、地中海辺りまでタウロスの山肌がシリアやイラクなどを分けている。このためポツンと海岸線にあるアダナの町は辺境を思わせたのだがとんでもない。タウロス山系の地下の伏流水などに恵まれて、見た目以上に暮らし易く裕福な土地柄であると思われた。アダナではローマ時代からの植民都市の遺跡を見て回った。

この町を訪れた理由は、地中海に面したシリア国境沿いにアンタクヤ(アンチオキヤ)という町が近くにあり、この港湾古都が中国に始まるシルクロードのひとつの終点として過去に栄華を極めたと聞いて関心を持ったからである。背後にせまる山脈は、切り立った山並みとなっており、トルコ東部やシリアの北部国境の象徴的な地形を成している。白っぽくむき出した巨岩巨石が疎林の緑に囲まれて印象深い。この辺りから、アララット山に向かってイランやアルメニアに至るシリアとの東部国境付近は、今でもクルド人などの山岳民族による山賊行為が頻繁にあるそうで、旅行者としては安易に近づくべきところではないようである。

トルコはイスタンブールやイズミール、アンカラのような大都会を除けば交通量が非常に少なく、スピードを出したくなるが、道路にでこぼこがあったり、路肩がもろいので要注意である。アンカラを中心とするアナトリア地方は高原がなだらかに広がっているので特にその傾向が強い。国全体を通してみると、山岳地帯が多いので、道にカーブが多く、ついついスピードを出しすぎて、出会い頭に車を避けきれないという場面もありそうだ。アナトリア地方やカッパドキア地方は冬期には積雪があり路面が凍結するので、この時期のドライブは避けるべきであろう。

地中海太郎

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