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バレンシアからバルセロナまで |
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レコンキスタはスペインの国土回復運動すなわちイスラム勢力を駆逐してスペインの自治独立を目指した国民的運動であるが、その代表的英雄の1人に有名なエルシドがある。彼はバスクに近い北部中央地方のブルゴスの生まれであるが、アリカンテを場にレコンキスタ(国土回復運動)を指導し、成果をあげた。ハワイのワイキキビーチに似た海岸線の突端近くに、これもダイヤモンドヘッドに似た岩があり、この岩をエルシドの岩として地元の人々に敬愛されている。
そもそもアリカンテの地元における正式名はアルカンタラと呼ぶが、このALで始まる語源はすべてアラブの影響によるものとされる。海を隔ててはいるが、北アフリカのアルジェリアなどは近く、TVのチャンネルを回せばアラブの音楽が流れている。ここからはアルバセテなどの荒れ地を抜け、マドリッドまで5時間ほどのフリーウェイが通じている。この地域には、ムルシアやバレンシアなど地方の主要都市としての機能を備えた町並みが見られる。
アリカンテを過ぎて30分ほど走ると、ベニドルムというアメリカのマイアミビーチやワイキキを思わせるおよそヨーロッパとは思えない高層のホテルやマンションが建ち並んだリゾート地がある。ここは太陽を求めて南下する北欧やドイツの庶民のリゾートビラの林立する場所としてにぎわっている。あまりにもアメリカ風でその結果裕福な階層のヨーロッパ人たちには敬遠されているものと思われる。海岸線は砂浜が白いことからコスタブランカと呼ばれるが、さらに北上すると、コスタドラド(黄金の海岸)がバルセロナまで続くことになる。
バレンシアに近づくと広い沃野がひらけ、見渡す限りにオレンジの畑が続く。日本人にとってバレンシアという響きから、先ずオレンジが頭に浮かび、つぎに大好きなスペイン料理のパエリャか火祭りを思い浮かべるだろう。ムルシアからバレンシアにかけてはスペイン屈指の平坦な沃野が広がっており、野菜、果樹なども豊富で、一年中緑と花が咲き乱れる麗しき土地である。しかし旅行者にとっては、豊かであっても平坦な沃野のみでは刺激が少ないこともその通りである。関東平野の埼玉や千葉県の田舎を走っているような地形である。
バレンシアはスペイン最大のコメの産地であり、われわれ日本人にとっても馴染みの深いパエリャは、ここが本場である。コメに関しては、聞いたところによると、なんでも日本人の技術者がバレンシアの米作りを指導して成長したそうである。
また、バレンシアの郊外にアルブフェーラという淡水湖があるが、ここではウナギの養殖が行われている。道の左右にウナギの養殖池を見ながら車で走ると、ここがスペインなのかと思ってしまうほどである。
スペイン好きの方ならオルチャタという飲み物をご存じであろう。草の根から作ったカルピスのような飲み物で、夏の暑いときにこれを飲むとさわやかな味が口に広がる。このオルチャタはバレンシアが発祥の地であり、オルチャタ村に行けば、美味しいオルチャタを飲ませるバルが軒を並べている。ここでオルチャタの素となるチューファという草の根も味見させてもらった。
このように農産物などの豊富なバレンシアで、この地のメルカードを(市場)訪れない手はない。バレンシアのメルカードは観光客にもわかりやすい、駅に近い場所にあり、広々としていて、魚やいろとりどりの野菜、果物が所狭しと並べられており、見てまわっているだけでも楽しい。特にパエリャに使うサフランなどはここで買うと安い。市場の前にはパエリャ鍋が1人前用から、およそ100人用まで、小から大まで大量に並べられていて、これも面白い。
私はこの町の火祭りは見ていないが、最上等のレストランの厨房に入る許可をもらって好物のパエリャを作る過程を見せてもらったことがある。従ってパエリャを作る自信はある。意外に知られていないが、リャドロの陶器人形の工場もこの地にある。観光客にも安く売ってくれるので、リャドロを買いたい人は工場を訪ねてみるのも良いだろう。
太陽の恵みと長い海岸線が続くこの地ではまた、塩田に海水を引いて天日乾燥による濃縮と精製が行われており、あちこちに赤い塩(濃縮されたもの)や精製した塩の山が見られ、製塩の地であることは一目瞭然である。製塩業はたいへんにきつい作業と聞いた。それは塩の結晶から反射される強い太陽光線が目の網膜を痛めるので失明を伴う厳しい労働であることも地元で聞いた。
さて、バレンシアとバルセロナのちょうど中間にペニスコラという町がある。本土に隣接して江ノ島のようにきれいな土地であるが、島全体が要塞のようになっており、フェニキア、カルタゴなどの争奪戦の果てに、レコンキスタの騎士団が要塞を築き、ローマ法皇がアビニョンで捕囚のような生活を送っていた頃の居城であったとも聞く。
ペニスコラを過ぎ、バルセロナが近くなるとタラゴナの街がある。ローマ時代の遺跡があちこちにある。シーザーの時代には人口100万人を擁していたとされるこの街は、風雪に耐えた歴史の奥深さに落ち着きが見られる街だ。今では人口10万人もいようかと思われる静かな所で、暖かさと、海の青さがまぶしい街である。昔からタラゴナの人々はタラッコと呼ばれ、気品と誇りを大事にしている。
タラゴナからバルセロナは車で40〜50分の位置にある。フランコ総統が生きていた25年ほど前には、全てスペイン語(カスティーリャ語)を義務づけられていたバルセロナも、今ではカタルーニャの州都としての誇りと独自性の発露として、カタラン(カタルーニャ語)を採用している。話し言葉も街の表記もカタランである。フランス語とスペイン語をミックスしたようなこの言葉は旅行者にとっては理解が難しい。
フランコがまだ生きていた頃にバルセロナに留学していたことのある家内の話によれば、当時でも役所やデパート、学校など公の場ではスペイン語(カスティーリャ語)が義務づけられ、カタランは禁止されていたものの、反骨精神の強いカタルーニャの人々は、家の中、友人同士ではカタランで話していたそうである。市民戦争で大きな痛手を受けたこの地方の人々の間にある心の葛藤は部外者にははかり知ることができない。
ピカソやミロ、ガウディ、そしてフィゲラスのダリなどの強烈な大天才が育ったこの街については心に留めておく必要があろう。通常では考えられない独創性を育んだバルセロナの、その包容力の大きさに驚かされる。土地の暮らしが豊かだからであろう。バルセロナについては歴史、美術、建築など様々な分野の案内書があるので、それぞれの興味にしたがって、それらを参考にしたらよいだろう。地中海の光を受けて明るく、ランブラス通りのように、のびのびとおおらかな街だということだけは記しておこう。地上に存在する最も素晴らしい都市のひとつと数えても良いだろう。近くにはシッチェスの海岸リゾートがあり、ガウディに芸術上の着想を与えたモンセラットの岩山もある。ちなみにガウディはタラッコ(タラゴナの人)である。
地中海太郎
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