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9. ヴァイキングの活躍と地中海の関わりについて

日本人にはヴァイキングといえば、スカンジナビア地方を根拠地として北海やバレンツ海を放火略奪などの殺戮行為を専らにした海賊というイメージが強く、それ以外のことについては知られていない。つまり日本人は蒙古襲来については知っていても、ヴァイキングの日本侵略はなかったので教科書に載ることも無く、彼らについてはあまり知ることはなかったのである。しかし、ヴァイキングのことについて知れば知るほど、その活躍が世界史上に与えた影響の大きさに驚嘆する。ヴァイキング=海賊と定義は出来ないのである。

ヴァイキングの活躍したのは8世紀初頭から12世紀にかけてである。ヨーロッパでは、これより200~300年前にゲルマン民族の移動が起こっている。北西アジアのフン族などの民族移動がゲルマン民族の移動に玉突き現象を与えてローマまでの民族の大移動となってヨーロッパ世界を震撼させ、そのことによって今に至るヨ-ロッパ世界に計り知れない影響を与えた。ヴァイキングの活躍は、史上に与えたカオスの広がりという意味においては同等であろう。

ヴァイキングの祖先はデーン人やノルマン人であるが、元来がケルト人やゲルマン人と深い関わりがあり、肉体的にも文化的にも共通項が多い。その特質は寒冷地で鍛えられた大柄な体格と強靭な精神性であって、他を圧倒するような破壊力を持っていたと思える。

地中海に関して書いていながら、ヴァイキングの記述に触れることは意外に思われるかも知れないが、ノルウェー(ノルマン人)のヴァイキングが現在のフランス北西部のノルマンディー地方に侵入し、そしてそれを橋頭堡(きょうとうほ)としてイングランドを攻略したり、また南下してスペインのサン・セバスチャンやブルターニュ地方のナント、さらにはコルドバやマラガを経て南イタリアを攻略してシチリアのパレルモにノルマン王朝を開き、200年にわたってこれを維持し、地中海世界にも深く影響を与えたことに拠るものである。シチリア攻略は初めから当時のビザンチン(イスタンブール)の攻略に目的があったらしいが、そのスケールの大きい行動力には驚かされる

南イタリアを含むシチリア地方はかってギリシャ、カルタゴ、サラセン、スペインなど色々な国からの侵略に苦しんだ歴史があるが、紅毛碧眼の北方の侵略はヴァイキングが初めてではなかっただろうか。それまでは侵略民族は比較的黒髪の民族が多かったのである。そのことによる文化的インパクトは格別に大きかったに違いない。現在この地で見られる金髪碧眼の人々はヴァイキングの末裔であると言われており、このことはシチリア旅行中何度か聞かされている。このヴァイキング(ノルマン人)による治世というものは宗教的に寛大だったらしくイスラム教徒やキリスト教徒そしてユダヤ教徒がうまく融けあって華やかなノルマン文化の興隆を見た。これらについては、パレルモの町に今でも残っているノルマン宮殿等によって往時を偲ぶことができる。

ヴァイキングの行跡を見ると略奪のための海賊行為、植民のための移民行為、そして通商のための航海に大別されるが、通商目的であっても相手に隙があれば忽ち海賊に変身することもあったらしい。もっとも植民を目的にして定住する場合は穏やかにその土地に溶け込んでいたのであろう。彼らの故郷はVIKEと呼ばれるフィヨルドの奥深い土地柄で、そのためヴァイキングと呼ばれたらしい。シチリア植民の場合は、そのふるさとには全く無い憧れの輝く太陽とパレルモ郊外に広がるコンカドーロ(黄金の窪地)とよばれる緑の沃野に安住の地を見いだしたに違いない。そして極寒の地で鍛え上げた意思力と体力をもって、勇敢なヴァイキングの子孫として畏敬の念を感じさせながら上手に統治をしていったのではないかと思われる。

もっともシチリアを侵略したヴァイキングは、直接スカンジナビアから向かったのではなく、それ以前に侵略したノルマンディー地方から南下したヴァイキングであって、言語や生活習慣などかなりの部分においてフランス化していたとされており、このようなことも統治には都合が良かったのではないだろうか。シチリアはこの後ヴァイキングのノルマン人に変わってドイツの支配をも受けるのだがゲルマン系同志の政権移譲はスム-ズに行われたと思われる。

通商を主とするヴァイキングは、毛皮とか鯨油そして干しダラや鉱石などの特産品を積み込み、フランスではセーヌ川やローヌ川、ドイツ方面ではライン河やドナウ川、ロシア方面ではドニエプル川やヴォルガの川を渡り内陸深くまで進入した。その文化的影響は計り知れないものがあったとされている。ある意味ではノブゴルド公国やキエフ公国を立てたスウェ-デン系のヴァイキングはロシアの親とも言えるのではないだろうか。

またノルマンディーを支配したデンマーク系のヴァイキングはノルマン・コンクエスト(ヘースティングの戦いと呼ばれる、イギリスにおける関が原の戦い)によってイングランドを征圧した。そのデンマークのヴァイキングは、世に名高い所謂デーンロウとよばれる法体系の下に約300年間イングランドを支配していた。このことから今のイギリスはデンマークの申し子と言っても過言ではない。

ヴァイキングの活躍した地域の範囲は、東方面からはスウェーデン系のヴァイキングが黒海やカスピ海を経てイスタンブールやタシケントまで、西回りのデンマークのヴァイキングはスペインやイタリアを経てエルサレムまでヨーロッパ大陸を一周する形で、侵略と言うか進出を果たしている。まことに壮大なスケールだったと言えよう。ヴァイキングの活躍がもたらした結果は計り知れないものがあって、今に及ぶヨーロッパの主要交易路は彼らによって形成されたものとされている。

話は重複するがノルマンディーに占領されたイギリスではフランス語が使用されていたようで、このときに元々からのゲルマン語やデーン語を基本とするそれまでのイギリスの言葉がフランス語と適当に混じり合い、今に至る英語が出来たとされている。当然のことながら、言語に限らずあらゆる文化がこのような事情によって混交されており、このことからイギリスはヴァイキングの嫡男と言われるのである。しかし、ケルト人を主としたウェールズやスコットランドは完全に支配し切れなかったらしく、そのことは今に至るまで尾を引いている。

ついでながらノルウェーのヴァイキングは極洋方面からアイスランドを領土化しているし、また、スバールバル諸島などを開拓しながらカナダ沖から北米のワシントン近辺のボルチモアまで進入していた。これはコロンブスに先んじること約500年前のことである。すなわちアメリカ大陸の第一発見者はコロンブスではなくヴァイキングであって、コロンブスの発見した土地は中米にすぎなかったということらしい。

ヴァイキングは何故にかくも地球の果てを突き抜けるように大航海し続けたのだろうか。思いつくのは、彼らのふるさとがフィヨルドにあったことに関係があるのではないかということである。

フィヨルドのある現地を訪れて感ずることは、ノルウェーに限らずスウェーデンにしても、限り無く奥深いフィヨルドに無数の支流とのつながりがあり、それが広大な地域にわたっていて、まるで巨大迷路のようである。水路を小船で航行してみると興味が尽きない。フィヨルド特有の似たような風景はあるが、良くみると同じ風景は一つとして無く、変わりくる景色に次にくる風景の期待が高まって飽きることが無い。

彼等はこの限られたフィヨルドの土地の生活で、必要な物資を調達するために絶えず航行しなければならなかった。

そういえば8000キロメートルに及ぶ航海をペルーからイースター島までバルサ材の筏で作ったコンチキ号や葦舟のラー二世号で航海したへイエルダール博士や、極地探検のアムンゼンやナンセンはノルウェーの人であり、そしてタクラマカン砂漠やタリム盆地などの中央アジア探検に不朽の功績を残したスヴァン・ヘディン博士もまたヴァイキングの子孫である。

そのヴァイキングも侵略や植民を通じて異文化と接することになり、殊にキリスト教文化を受け入れることによって次第に略奪などの行為が影をひそめるようになって歴史上から忽然として消え去るのである。

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